杉谷雪樵

公開日

杉谷雪樵
文政10年熊本に生まれる。
間は敬時、通称を一太郎といい、洞庭子、雪樵と号した。
はじめ藩御用絵師であった父行直に絵の手ほどきを受けるが、のち矢野家6代良敬の弟子となり、藩の御用を務めていく。
しかし、19歳のときに父を亡くしその後の生計は赤貧洗うが如しであった、と雪樵伝には記されている。
その父が亡くなったあとの安政年間、藩命により江戸に出向き、藩邸の事務に従事、この間約8年は画事から遠ざかった。
帰熊後、再び絵筆を執り、雪舟の画法を手本として画業に邁進、謹直な画体の矢野派の様式を展開した。
維新とともにその禄を離れるが、ちょうど幕末から明治にかけての南画流行の時代にあって、雪樵の北画的様式は全く顧みられず、若い頃の生活苦を再び余儀なくされた。
南画に対しては真っ向から反論し、ひたすら雪舟流雲谷派の復興に没頭するが、その雪樵のおそらく生活のためであろう、南画的な傾向に走った時代もあった。
そんな時代背景の中で、宋元画明清画などの中国絵画、四条派、大和絵などの日本緒流派の研究を重ね、近代化という時代の流れに呼応するように御用絵師時代の画風からの脱却を図っていく。
明治20年、雪樵にとって大きな転機が訪れた。
上京し、旧藩主の援助を受けて画業に邁進する。
以後没するまでの8年間、ちょうど日本画近代化の覚醒の時期にあたり、中央日本画会の刺激を受けて、いよいよ充実した時代を迎える。
数回にわたり宮内省や細川家の御用絵画の制作に携わるなど、中央でも次第にその名を知られていく。
雪樵は、矢野派最後の画家として近世から近代の過渡期に活躍した画家であり、その画風の変遷は、日本美術史のある部分での縮図と言ってよいだろう。
花鳥、人物また時には戯画的味わいの作品を手掛けたが、見るところ山水画の領域に優れた作品を残しており、保守的な作風ながらも雪樵の熊本近代日本画の展開に果たした役割は大きい。
明治28年8月4日、東京で没した。

略年譜
文政10(1827) 熊本市に生まれる。
弘化 2(1846) 父行直死去し杉谷家の当主となる。藩絵師として召しかかえれられる。
安政元(1854) この頃から江戸の細川藩邸での事務の仕事に従事。
明治20(1887) 上京。旧藩主細川家の援助を受ける。
明治22(1889) 宮内省御用絵画《冨貴孔雀図》を制作。
明治25(1892) 細川家の障壁画を制作。
明治28(1895) 東京で死去

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